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8月15日(月)
Papeete(FAAA)1:00 LA834 10:15Isla de Pascua(Mataberi)
タハイ遺跡、イースター島半日ツアー(15:00〜18:00)
Hotel Hangaroa

折り返しのラン航空は、1時間近く遅れて到着した。それでも、ほぼ定刻に出発した。もともと最初から遅れを見込んでいるのだろうか。搭乗率はB767の機体に半分よりも多いくらい。日本人が多いにしてもかなり搭乗率は良いようである。飛行機が出発すると、まずサンドイッチの軽食があり、とにかく爆睡。時差4時間を考えると、出発時点ですでに朝5時なのだから、とにかく寝るしかない。しかし、飛行時間5時間で、軽食の時間と2時間前の朝食に強制的に起こされて、眠れるものではない。それでも、不思議とイースター島を前にして、飛行機を降りる頃にはテンションが高くなっているのか、あまり眠気はなかった。

ラン航空B767の大型機を利用しているにもかかわらず、空港は滑走路一本が延びるのみ。史上初、B767で滑走路を折返してくるという状況になった。石垣島などB737では良くある光景だが、B767では初めての経験。しかもこの空港は、スペースシャトルの緊急着陸施設でもあるそうで、B767なら2000m、B747でも3000mあれば十分な滑走路長が、なんと3300mもあるのだ。こんな絶海の孤島にすごいものがある。到着してもすぐには降りられず、機内の消毒をしてから。絶海の孤島であることから、病原菌にもあまり侵されないという好条件でもあるので、こういうところは徹底している。

ちなみに、イースター島とは1722年にオランダ人が上陸したとき、その日がイースターの日だったのでその名をつけた。正式名称はイスラ・デ・パスクア(パスクア島)。島の人は、ラパヌイ(ラパ大島)やテ・ピト・オ・テ・ヘヌア(地球のへそ)と呼ぶ。一番一般的なのはラパヌイだ。入国すると、アンデスツアーの日本人駐在員が、首飾りの生の花輪をかけてくれてお出迎え。両替をしようにも空港には無いということであるが、それより何より両替をする必要は無いと言う。USドルがそのまま使えてしまうのだ。

ホテル・ハンガロアただ、レートとしては1US$=530チリペソ($表記利用)のところ、1US$=500$になるのだから、一万円で600円くらい損をする。手数料を考えると、3日の滞在では確かに微妙なところである。カードが使えるところでは、カードを使った方がいいのかもしれない。と言っても、カードを使えるところがあまり無い。ホテルハンガロアまで大きめのバンに乗り、ホテルのロビーに全員を集めてチェックイン。ここではオフシーズンだが、日本がお盆シーズンなので、日本人がとにかく多い。20人くらいはいただろうか。部屋に入って落ち着いたのは、11時を過ぎていた。

これから三日間、半日が二回、全日が一回のツアーが組まれている。フリー時間は、今日これからと、明日の午後である。今日のツアーは15時出発ということで、それまではハンガロア村の中を散策する。ハンガとは入り江という意味、ロアとは長いという意味だそうで、すなわちlong bayと言う意味。ホテルが少し村外れにあるので、村の中心まで徒歩20分くらい。しかし、村自体は狭くて、徒歩5分もあればメインロードを歩ける。丘の上の教会を見た後、そのまま海に向かえば、モアイとついにご対面である。アフ・ティハラと呼ばれる場所のモアイで、2m程度の小さめのモアイであるが、ついにこの目でモアイを見ることになるとは、ただただ感動するばかり。雨期の時期ながら快晴なのも良かった。

アフ・ティハラ小豆島ほどの大きさの島の中には、モアイが千体以上存在する。どれもこれもいろいろ違っているのだが、村から一番お気楽に行けるのがこのモアイである。隣には、かなり風化してしまったモアイがある。加工しやすい岩を利用した反面、風の強いイースター島では、風化してしまうという問題もあるのだ。そのモアイが見えるレストランで、昼食にした。

海に面しているからシーフードが特産かと思いきや、大量に魚を採るすべが無いそうで、シーフードといえば一本釣りでつり上げたツナ(マグロ)である。それを頼んでチリビールも頼む。ビールは別段変わり映えのある味ではなく、普通のビール。英語があまり通じないのだが、まぁアジア的で楽しい。昼食が終わってもまだ時間がありそうだったので、遺跡として指定されているモアイまで歩いて行くことにした。村から徒歩10分くらいである。

タハイ遺跡タハイ遺跡はイースター島研究に生涯を捧げたウイリアム・ムロイ博士によって復元されたモアイ像である。左側のアフがアフ・バイ・ウリ。5体のモアイがアフの上に並び、一体は倒れたままである。研究初期に復元された物なので、雰囲気がばらばらのモアイが並んでいる。そのすぐ横にアフ・タハイがあり、その奥に完全なモアイの復元として、眼が入ったモアイがアフ・コテリクである。眼が入っているものは、我々のイメージするモアイには程遠いのはさておき、眼の無いモアイでさえイメージと異なっている。これは、後の方を読むことでわかるだろう。

天気は最高、強い日差しが照りつける中、こんなにモアイが並んでいるだけで大感動である。フィルムも一本撮り尽くしてしまう程。村から歩いて来られる距離の場所でも、十分モアイの雰囲気を満喫できる。早くも大満足だ。同じ海沿いの道を戻り、ハンガロアホテルに戻ってきた。ツアー出発にはちょうど良い時間で、すぐにツアーへ出発する。同じハンガロアホテルでも、日本語と英語のツアーでは車が違う。日本語ツアーでは空港にもお迎えに来た、アンデスツーリストのヨシさんがガイドとなる。

アフ・アキビ今日は村の北側を回るツアー。最初に、唯一海を背にしていないモアイが立つアフ・アキビへ。モアイの説明と、石で組み上がったアフの説明を受け、アフに登らないようにと念を押される。モアイに触るのはもってのほかである。山の中腹に位置する時点でも、他のモアイと趣が異なっている。海沿いのモアイを見て来た後だからこそ、なんとも違いが分かってよろしい。

現在の説では、初めてこの島を訪れた七人が、自分たちの住んでいたラパ島を向いて立たせたのではないかと言われている。そのラパよりもこの島が大きかったので、ラパヌイだとか。タヒチヌイと同じく、ヌイは大きいという意味である。山の中に忽然と表すモアイたち。なんとも説明をつけがたい。天気も良く、ぴーかんの青空の元、モアイが映える。アフに登らなければ、裏に回ることもできる。またしてもかんどーである。仏像や大仏では味わえない、何かわからないがふつふつとこみ上げてくる。まさにコレこそが、テレビでは味わえない、自分の目で見なければわからないものなのだろう。

次にアナ・テ・パフへ。イースター島はいつでも風が強いことで知られ、今日も風がビュービュー吹いている。植物を植えても、すぐに種が飛んでいってしまい、なかなか植物も育たない。そこで、洞窟を利用した植物栽培が行われていたそうで、芋やバナナが成っていた。この洞窟にはかまどの跡もあり、人が生活していた事もうかがえる。

アフ・アキビ次に向かうのはプナ・パウである。後期のモアイの頭の上に載せたプカオを切り出した場所である。赤色凝灰岩という赤い色をした石を利用して、モアイの石とは異なる色を出していた。いまだに切り出し途中のプカオが無造作に転がっている。ハンガロア村が一望できる高台にあるのだが、それゆえにとてつもなく強風が吹きあれていた。軽い人なら飛んでしまいそうなとんでもない強風である。説明を聞くのも、少し山を下ったところでないと、何も聞こえないという状況だった。

そして、今日最後に向かうのが、アフ・ビナプである。精巧な造りの隙間一つ無いアフがすばらしく、インカ帝国とのつながりを言う考古学者もいるそうだが、ここは与那国海底遺跡と同じではないかとの説を説きたい。日本とポリネシアの言葉、文化が似通っているし、偶像ならタヒチ、ハワイのティキ像に加えて、日本にも古墳時代の埴輪がある。同じ系統なのでは無いだろうか。さらには、太平洋上にはムー大陸があり、イースター島、ハワイ、沖縄などが含まれていたとも言われている。

アフ・アキビ精巧なアフもさることながら、その上に立つべきモアイがすべて倒されている。集落間でモアイを倒す戦いが起こり、一つ残らず倒されたそうである。したがって、現在立っているモアイは、全て復元されたものである。倒れたモアイはあまり写真でも見たことが無く、うつ伏せの状態で全て倒されたモアイはこれはこれで圧巻である。またしてもかんどー。本当に、大満足の一日であった。

この精巧なアフの隣にもアフがあるが、この素晴らしいアフに皆ひきよせられ、しばらく隣のアフは気にも止められず、名前が無かったそうである。なので、その隣のアフをアフNo.2と読んでいるとのこと。こちらには女性と思われる赤い色をしたモアイがアフの外に立っている。ちなみに、2002年にモアイに名前を彫ったとして捕まった日本人は、ここのモアイに掘ったそうである。ご丁寧に漢字で自分の名前を彫っていたので、村中捜索されあっという間に御用。二週間出国させず、罰金所持金全て(カードの上限額らしい)、再度訪問して罰金を払え、という大変な騒動になったとのこと。くれぐれも、こんなことはしないように。現在は風化が進み、その彫った名前も見えなくなっていた。

アフ・アキビ18時にホテルに戻り、これにて本日のツアーが終了した。3時間とはいえすごい充実した内容だった。食べ物としてのお土産として何か無いだろうかと尋ねれば、モアイチョコがあるらしい。レストランの親父が片手間で作るものらしいが、完全受注生産だとか。ヨシさんに注文票を渡しておけば、帰るまでに準備してくれる。どう考えてもヨシさんがこの親父にもうけ話を吹き込んだに違いない。そのレストランに行けば、モアイチョコのサンプルが見られるとあって、その日の夜は日本人で一杯だった。

レストランからの帰り道、雨がぱらぱら降り始めたが、明日は大丈夫だろうか?夜になると台風かと思わんばかりの暴風雨になり、海沿いのホテルの部屋は大変だった。年期が入ったホテルの窓に、風が容赦なく吹き付ける。その風の力で押された窓の隙間から風が入ってくる。風で窓が割れるかと思うくらいすごい風だった。ちなみに、ホテル自体が沖縄的なオープンなホテルで、部屋のドアを開ければ雨が吹き込む廊下である。新婚旅行ならスペリオールをお勧めするのも、当たり前の話である。というか、新婚旅行でここまで来るには夜の飛行機ばかりで日程的に厳しいものがあるので、あまりお勧めではないのだが。

モアイについての基礎知識

モアイはイースター島の至る所にあるのだが、確実なことは何一つ分かっていない。現在も調査が進められ、諸説存在するところである。一番有力視されているのが、島内の集落の権力者が亡くなった時に、守り神として墓を立て、それがモアイではないかと言われている。モアイは必ずアフと呼ばれる、石で組み上げられた祭壇の上に立っており、数十年毎に拡張した痕跡が残っている。日本で言えば古墳がそれにあたると考えられ、ピラミッドなどと同じく権力者を奉った物なのであろう。モアイが載るアフは、海に近いところにあり、モアイは必ず海を背にしている。それは、漁業を主とした人々が、海に出て行く前に祈った場所と考えられる。そして、アフの前には必ずと言っていいほど広場が広がっている。

アフ・コテリクこれらの話を総合すれば、モアイは墓標とも言え、特に不思議な物でもなんでもない。何千年後に、十字架が何を意味しているのか分からない時がくるだろう。後年はモアイの頭の上にプカオとよばれる帽子のような物を載せているのだが、一説にはちょんまげではないかと言われている。ポリネシアの文化として髷を結う文化があり、未だに長髪にして髪を束ねた男性をよくみかける。

そして、モアイは眼を入れて完成する。本来は、眼が入るとマナ(霊力)が宿り、モアイとは呼ばない別の物になるそうである。実は、眼の無いものだけをモアイと呼ぶそうだ。そうして孤島がゆえの島独特の文化を育み、1800年頃まではモアイの大きさや数を集落間で競っていた。しかし、ほんの百年前、フリ・モアイと呼ばれる集落間のモアイを倒す戦いにより、すべてのモアイが倒されてしまった。マナの力を無くすため、その多くは俯せに倒され、眼は粉々にされた。この戦いは食糧危機のための集落間の衝突と言われている。モアイを運ぶために大量に森林を伐採し、木は一本残らず無くなり、土地は痩せ、海は流れ出た赤土で汚染され、食料が採れなくなったのだ。現代の世界と同じ状況ではないだろうか。現在立っているモアイは、すべてが近年復元された物である。

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